今回の「KOINUMA'S NOTE」では、少々趣向を変えて、キースのニューアルバムについて書かれたニューヨークタイムズの記事を紹介しよう。
まず驚いたのが、たった一枚のアルバムの評だけのために、新聞が1ページのうち3分の1ものスペースを与えているということだ。これはもう文化の違いとしか言いようがない。 そしてこの記事を書いた筆者が、キースの音楽を深く理解していることがわかるし、またそれを的確な表現で読者に伝えている。日本では、これだけのクオリティを持った音楽評が、新聞のみならず雑誌、CD添付の解説書に載る事はまだまだ少ないというのが僕の感じるところだが、アメリカには、CD評も含めてコンサート評だって、こういったハイレベルの文章を書く人が沢山いるのだろう。そうしたライター達が音楽家を文章の力で育てているという事が感じられる。演奏会において聴衆が音楽家を育てると言われる様に、優れた批評も音楽家に良い意味での緊張と次なる目標を与え、そのレベルアップに力を貸す事になるのだと僕は思う。 日本でこのような環境が整う様になるのは、いったいいつの事になるのだろうか。


写真は合成です。N.Y.Tに掲載されたものとは異なります。


ニューヨーク・タイムズ評  by ピーター・ワトラス



「キース・ジャレット、限りあるものへの瞑想」


 キース・ジャレットの最新ソロ・アルバム、「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」は、乞いて聞き手に音楽と限りあるものとの関係を考えさせる。ジャズのプルースト[訳注マルセル・プルースト]、ジャレットは、近年慢性的な過労性症候群を患い、イン ターネットでは一頃彼の急逝の噂が盛んに飛び交い、それがその後数公演がキャンセルされたために信憑性を帯びていた。アルバムは、彼の夫人ローズ・アンに捧げられており、曲名を挙げれば、<アイ・ガット・イット・バッド・アンド・ザット・エイント・グッド><サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー><ドント・エバー・リーブ・ミー>と、彼女がジャレットの健康回復の要役だったことが推察される。

 明らかに、何かが起こった。というのも、スタンダード曲集、「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」(ECM 1675)は、ジャレットの表現主義の、“水道管破裂型”即興からの抜本的な転換だからだ。演奏は閑散としている。メロディにのっかっている。それはエレガントで、バランスがとれ、内省的で、彼の音楽性の荘重なほどロマンティックな挙止はどこにも見当たらない。ピアノは、ジャズに於いては、常にヨーロッパとアメリカの音楽的行為の出会いの場であったが、このアルバムの美点はさておき、ジャレットはこれら二つの文化の間に続く格闘試合に於いて、またしても重要な作品を生み出した。

 ジャレットは目下ヨーロッパのカノン作品を定期的に録音しており、この最新作にはそれが自ずと表れている。彼は、ヨーロッパのクラシック音楽の音色への配慮と微妙なアクセントを身につけ、ジャズのソロ・ピアノに応用している。だが、クラシックの伝統はジャレットのジャズの礎を覆すことはない。大衆曲のよりシンプルな通常のハーモニーに一層凝ったコード進行が取って代わるという、ジャズのハーモニー伝統の一つである、代理的思考をたどって、曲から曲へと、彼はハーモニーの紗を織っていく。

 その演奏は、ほとんど、囁きの域を出ることはなく、旋律の音に音を2、3補強するだけで曲に文脈を与える。ベース・ラインは曲を通じて推移する。ジャレットのハーモニー進行は、たとえ彼が曲の制約から流れ出でようとも、それぞれの和音が収まるところに収まり美しい。打楽器の細やかな濃淡を伴う親密なそのタッチは、バラード曲の陰影に陽光を撒き散らす。曲はどれも驚異、小さな和音と旋律が静かにさまよいながら、それぞれの理に適う目的地へと向かう。

 ジャレットは研ぎ澄まされた感性を、その限りあるものへの黙想に寄せている。ジャズ文化の大きな一部である、楽しい激発的な葬送の祝いはここにはない。そして彼は大人にしか受容できない音楽的、ドラマ的言語を用い、哀調を帯びた時間を熟した誠実さで満たしている。最も充実した生に於いても、苦しみと限界の認識さえあれば、成熟した作品を生めるという保証はない。だが、54歳で、ジャレットは自らの体験を芸術に置き換える修辞法を修めた。

 「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」は、若い音楽家にはなしえない録音。この録音の数ある沈黙と緩やかなテンポ、そしてピアニストのすっきりと語りたいという欲求には、あたかもジャレットが、音楽で通用することには幾つかあり、それらの中には、旋律と力強いコード進行と沈黙と愛の歌があるという悟りに至ったことが、表れているかのようだ。

END
小山 さち子 訳