「どうだいトシナリ、1曲目の<オール・ザ・シングス・ユー・アー>は、左手がレニー・トリスターノみたいだったろう」
 2回目のアンコールを弾き終えてステージを降りてきたキースが、微笑みながら僕に語りかけてきた。客席からは鳴り止むことのない拍手が波のように押し寄せてくる。
 「ところで一昨日は何回アンコールを演ったんだ?」
 「3回だよ」
 キースは軽くウィンクするとクルッと踵を返し、再び熱狂の渦の中へと戻っていった。東京文化会館を埋めた超満員の聴衆全員が、スタンディング・オベイションで彼の完全復活を讃えている。ひときわ大きな歓声、そして一瞬の静寂。東京公演2日目最後のアンコール・ナンバーは、即興演奏によるブルースだった。ピアノと一体化しながら躍動するキースの背中を見つめながら、今日までの長い道のりを思い、ようやく僕は安堵の息をつくことができた。こんなに素晴らしいコンサートを客席で聴くことができないという悔しさを頭の片隅に仕舞い込みながら―。
 僕とキース・ジャレットとの付き合いは、アイミュージック時代の1974年に招聘したヨーロピアン・カルテットから四半世紀にもなる長いものであり、その公演回数も今回の2公演を合わせると計137ステージにもなる。その歴史の中でも12年ぶりとなった今回のソロ・コンサートは、様々な紆余曲折を経た上で実を結んだものだけに、僕自身にとってはひときわ感慨深いものとなった。
 今だからこそ語ることができるキース・ジャレットの復活秘話。ここでそのドキュメントをお届けすることにしよう。

 実はキースのソロ公演は97年11月に行われる予定だった。その前年11月には、キース本人とも日本全国で計6回のステージを開催することで合意していたのである。
しかし、97年4月始め、イタリアをソロ・ツアー中のキースに突如病魔が襲いかかった。演奏中にいきなり極度の疲労感に包み込まれ、自分が何をプレイしているのかも皆目分からなくなってしまったのだ。それでもプロとしてツアーを続けるものの、体調が元に戻る兆しはまったく現れない。そのときの恐怖感をキースはこんな風に語っている。
「まるでエイリアンが自分の身体の中に入り込んできたみたいだった。もう二度と演奏できなくなるんじゃないかとさえ思ったほどだ。そしてツアー最後のコンサートでは、私は葬送曲を弾いたんだよ。そう、私自身のための葬送曲を―。」
 キースに下された診断は「慢性疲労症候群」。それは長期に渡って原因不明の微熱や極度の倦怠感に苛まれるというもので、偉大なるチェロ奏者パブロ・カザルスもかつて同じ病状で9年もの間、演奏活動から遠ざからざるを得なかった現代の奇病であった。
 イタリアから帰国したキースは、直ちにその年(97年)に行われる予定だったコンサートの全てをキャンセルする旨アナウンスする。もちろんそこには11月の日本公演も含まれていた。その時点からキースの動向と鯉沼ミュージックとのやり取りを時系列的に記してみよう。

1997年
4月29日

キースからオフィスにメッセージが入る。
「トシナリが私の現状と健康に理解を示してくれていることに感謝している。近い将来、コンサート活動に復帰できることを私自身も願っている。これまでの長い間2人でコンサートを作り上げてきたが、今の私は最も深刻な状況にあることを知ってほしい」

1998年
2月
 
  
復帰公演として10月9日にシカゴでトリオによるコンサートが行われるという情報が入る。

6月29日
キースよりシカゴ公演から翌年夏までの復帰プラン概要が知らされる。

7月
あらためて99年9月にソロによる日本公演をキースに打診。6回のオファーに対して、5回なら大丈夫だろうという返事が返ってくる。

8月
日本公演に関するスケジュール等詳細に関する交渉を開始。

10月5日
シカゴ公演に合わせて渡米を予定するも、公演2日前にキャンセルの知らせ。

11月14日
復帰の仕切り直しとなったニュージャージー「パフォーミング・アート・センター」で行われたトリオ公演に駆けつけ、 久々にキースと対面を果たす。

12月22日
99年前半のコンサート・スケジュール(2月=ロスアンゼルス&サンフランシスコでのトリオ公演&4月=イタリア・ミラノ・スカラ座&ローマでのソロ公演)が知らされる。

1999年
1月27日

年が明けても健康状態が思わしくないとのファックス。

2月
ロスアンゼルス、サンフランシスコでのトリオ公演が実施される。

3月28日
「長旅による疲労に不安を感じているので、4月のイタリア公演をキャンセルするつもりだ」というファックスが入る。そして秋の日本公演についても同様の不安を表し、「公演 回数を2,3回に減らしてほしい」という申し入れも記されていた。

4月13日
結局イタリア・ツアーは公演2日前にキャンセルする。

4月15日
再びキースよりファックス。自分の体調を考えると日本でのソロ公演は困難であるという内容。ただ、トリオでは6月末から7月頭にかけてヨーロッパ・ツアーを行うかもしれないとも書かれていた。ただ、これ以後も東京公演スケジュールに関するやり取りは継続する。

6月16日
6月中に東京公演に関する最終結論を出してくれるようキースに要請する。

6月30日
ヨーロッパより「もう少し待ってほしい」という返答。

7月1日
1日おいて「やはり体調が戻らないので、9月の東京公演はキャンセルしたい」というファックス。

7月13日
キースより再びファックス。「ヨーロッパ・ツアー中は自分自身がプレッシャーと闘っていたので返事を出すのは困難だった。あの時はキャンセルを申し入れたが、2回だけなら東京でのソロ・コンサートが出来るかもしれない」

7月20日
キースより9月の東京公演決行の最終意志が示され、急遽公演準備作業 を再開する。

96年11月の日本公演オファーから始まり、キースの発病、そして最終的に東京公演決定から実施までの約2年半は、結果的にキースと僕の信頼関係をより強固にしてくれた。しかしそれはハッピー・エンドに終わったからこそであって、実際2回のコンサートが終了しても無事キースを成田空港の出国ゲートへ送り届けるまでは本当に気が休まることはなかったといっていいだろう。いまだからこそ話せるのだが、今回の来日はキースと夫人のロザーンの他に、キースの主治医が同行していた。正確な言い方をすればキースはいまも療養中の身であり、時系列表に記したように、完全復活に向けて98年後半から慎重に慎重を重ねてコンサート活動をプランニングしてきた。公演会場も自宅から1時間の距離にあるニュージャージー「パフォーミング・アート・センター」(98年11月)を皮切りに、4時間距離の米西海岸(99年2月)、8時間距離のヨーロッパ(99年6月)と、徐々に段階を経て設定している。しかし今回の東京公演は距離、時差ともに最大の上、ソロ・パフォーマンスであるがゆえに心身の疲労もトリオと比してはるかに大きい。それはキース本人にとっても、そしてまたプロモーターである僕にとっても一つの“賭け”だったといってもいいだろう。
 話をコンサート初日の9月27日に戻そう。やはりこの日のキースは、いつもと違った緊張感を漂わせていた。それはコンサート・スタッフも同様だったが、僕らにはコンサートの準備に最善をつくすことしか出来ない。だからステージ・コンディションの全てを万端に整えてキースを送り出した時は、本当に祈るような気持ちだった。拍手。歓声。キースはいつものように客席に向かって微笑みを浮かべながら何回か頷き、ゆっくりとピアノの前に座った。客席も、そして僕らも息を潜めてキースを見つめる。次の瞬間、あのキース独特の旋律が東京文化会館の大ホールに解き放たれていった。
 1stステージの1曲目、キース自身はピアノの感触を確かめるように何パターンかのモチーフを組み合わせて即興演奏を組み立てていった。ゆっくりと、しかし確実にキースとピアノの波長が同化していく。それはまるで能の「序・破・急」の如きリズムだった。そして2曲目はバラード調の短い即興。このテイクを弾き終わった時、ステージ袖から見ていた僕はキースの背中が安堵と自信に包まれていくのを感じた。彼は「よし、これでもう大丈夫だ」という確信を得たのだろう。そこから先は、もういつものキースのペースを取り戻していた。キースの復活に歓喜する聴衆の熱気に答えるように、疲れているにも関わらず3度もアンコールを演奏したのには驚かされたが、開演前にナーバスになっていたキースはもういなかった。

 2回目のアンコールに出る時に「<オールマン・リヴァー>を演るから、お前がドラムを叩けよ(実はかつて僕はドラマーだった!)」なんて軽口を叩くの聞いて、どれくらいホッとしたことか。僕はその時、ようやくキースらしいキースが帰ってきたことを実感した。(終演後、ホテルに帰る車の中でもキースは「<オールマン・リヴァー>はカウント・ベイシー・オーケストラでソニー・ペインのドラムがフューチャーされているテイクがいいんだよな。あのローピッチ・スネアのチューニングがゴキゲンなんだ」といっていた)とにかく、こうして初日の公演を無事に終わることができた。
 次の日はオフだったが、ホテルのイタリアン・レストランで開かれたごく内輪での食事会にキース夫妻は出席した。コンサートから一夜明けてもキースはゴキゲンのままで、食事制限されていて主治医も横にいるというのに、「ちょっとだけだよ」といって日本酒の熱燗をオーダーしたり、止められている牛肉を一切れ(しかも主治医のプレートから!)食べたりと、いつにも増してリラックスした様子だった。しかし、長旅の疲れと久々のソロ・コンサートということもあったのだろう、この日の深夜3時頃に突然背中が痛み出して、ホテルの同じフロアに宿泊していた主治医に部屋に来てもらったという。この話を29日のコンサート会場に向かう車の中でキース本人から聞いて、僕らスタッフがもう一度気を引き締めなおしたのは言うまでもない。

 今回の公演会場だった上野の東京文化会館は、日本におけるクラシックの殿堂として名を馳せてきたホールであり、これまでそのステージでジャズ系アーティストがコンサートを開いたことがなかった。しかし、以前このHPにも書いたように、キースはパリ・オペラ座、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座と、世界中の名立たる名門ホールでソロ公演を行ってきた。そして今回初めて東京文化会館のステージに立った感想をキースはこう語っている。「これまで日本でソロ・コンサートを演奏してきた会場の中で、ここの響きが一番いい」と。これはキースとしては最大級の賛辞だ。もちろんホールの音響特性が優れていたことは当然である。しかし、彼にそう言わしめたのは、今回の東京公演が精神的にも肉体的にも極限状態におかれた中で、満員の聴衆とともに最高の音楽空間を共有できたからこそではないかと僕は感じている。巨匠フルトベングラーはこんな言葉を残している。「感動とは、演奏家だけも、聴衆だけでも創造しえないものなのだ」と。満場のスタンディング・オベイションを受けていたキースのサングラスの奥に、ほんの一瞬光る物を感じたのは、僕の勝手な思い込みだろうか―。

 9月30日。キースはロザーンと主治医とともに帰国の途についた。最終日の公演後、「疲れただろう」という僕の問いかけにキースは、ニヤッと笑って目を閉じるだけだったが、代わりにロザーンがこう言った。
「キースってエナジー・マシーンなんですもの。」
そんなことを思い出しつつ、成田へと向かう車の中で、「今回のコンサートは本当にすごかったよ。又、日本にきてくれよな」とキースに語りかけた。キースは静かに、しかし力強く頷いてくれた。ともかくも、こうして都合3年にも渡るキース来日公演騒動はフィナーレを迎えたのである。

次回の「Koinuma's Note」では、今回来日公演であらためて実感させられたキースのサウンドやピアノに関するこだわりのエピソードを紹介することにしよう。
最後に、多くのファンからの要望に応えて、今回の2公演における演奏曲目を以下に記しておく。


Keith Jarrett "An Evening of Solo Piano"
1st Concert
1999.9.27. at Tokyo Bunka Kaikan, Ueno, Japan
<1st Stage>
1. Improvisation / 2. Improvisation / 3. Improvisation / 4. Improvisation
<2nd Stage>
1. Improvisation / 2. Improvisation / 3. Improvisation / 4. Improvisation
<Encore>
1. My Ship / 2. Old Man River / 3. Danny Boy

2nd Concert 1999.9.29. at Tokyo Bunka Kaikan, Ueno, Japan
<1st Stage>
1. Improvisation / 2. Improvisation / 3. Improvisation / 4. Improvisation
<2nd Stage>
1. Improvisation / 2. Improvisation / 3. Improvisation / 4. Round Midnight
<Encore>
1. All The Things You Are / 2. I Loves you Porgy / 3. Improvisation