マイルス・デイビス没後10周年を迎えて
マイルスが亡くなって、早くも10年がたってしまった。 この夏、現在スイングジャーナル誌10月号掲載中のマイルスに関するアンケートに答えながら、彼の死を知った日、そしてキースのマイルス・トリビュートアルバム録音に立ち会った事など、まるで昨日の事のように思い出し、僕は久しぶりにマイルスのアルバムを聴いたりして過ごした。
マイルスの死によって、ジャズ界は多大なる喪失感を味わった。この思いを再び思い出す時に見えてくるもの、そこに今後のジャズ界のあり方の鍵が隠されているのではないかと僕は思う。 参考までに、‘93年にスイングジャーナル誌に掲載された、「キース・ジャレットのマイルス・トリビュートアルバムの録音現場ドキュメント」を、今週から3回にわたって、ここで再び紹介致します。
「バイ・バイ・ブラックバード」録音現場ドキュメント
(「スイングジャーナル」‘93年5月号より)

飛行機の中というのは、私にとって寝る場所である。国内線、国際線を問わず、私は実によく寝る。また不思議と、飛行機の中というのはよく眠れるのだ。ところが、この日ばかりは、さしもの私も気持ちの高揚を押さえることができず、容易に眠りにつくことは出来なかった。 「この日」とは、マイルスが逝った日から数えて14日後のことである。私はこの日、キース・ジャレットがマイルスに捧げるレコーディングをするスタジオに向かうべく、全日空のニューヨーク直行便に乗っていた。 彼の訃報に私が接したのは、1991年9月29日(日本時間)のことで、「たった今、マイルスが息を引きとった」という、ニューヨーク在住の友人からの電話によってだった。
 翌日、日曜日だったのを幸い、私は自宅に引き篭り、電話にも出ず、マイルスのレコードを聴き続けた。ひとりの天才に別れを告げる、それは私なりの厳粛なセレモニーだったといっていい。 4,5時間もそうしているうち、 私は無性にキースに手紙を書きたくなった。この胸の内をキースにきいてもらいたい、そんな衝動に駆られたのだ。  最後の一行に、「キース、もうお前しかいない」と書いた手紙を、私はファックスでキースに送った。
 それから10日後の10月10日、キースのレップ(弁護士でもマネージャーでもない代理人)をやっているステファン・クラウドからファックスが入った。12日(アメリカ時間)にジャック・ディジョネット、ゲイリー・ピーコックと3人で、マイルス追悼のスペシャル・レコーディングをする。ついては、お前にぜひ立ち会ってもらいたいとキースが言っているが、来られるか。来られるならホテルをとるし、レコーディングの詳細も知らせるが、どうか、というものだった。
 「もちろん、喜んで飛んでいく」という私の即答に、ステファンから、再度、レコーディングの詳細を記したファックスが入った。
「10月12日。場所は、マンハッタンのパワー・ステーション・スタジオ。レコーディング 開始は午後1時。9時には終了の予定。ジャックとゲイリーは12時にスタジオに入るが、キースは11時に入る。」
このファックスを手にしたとき、私は最初12日(日本時間)の正午に成田を発つJAL に乗ろうと思った。それに乗れば、1時の音出しに悠々間に合うからだ。
 “だが、待てよ。そうだ。どうせならこの際、キースのレコーディングの一部始終をみてやるか”と思い直した。  私はそれまで、キースのライブ・レコーディングの現場には幾度となく立ち会っていたが、スタジオでのレコーディングというのは、初めての経験なのだ。実際、見たいこと、知りたいことが一杯あった。そこで、正午の飛行機をやめ、10時発の全日空に替えることにし、キースより先にスタジオに入ろうと、計画を変更した。 <br>  そして、>この飛行機の切り替えが、私に幸運をもたらした。この日は台風の接近で朝から天候が悪く、10時の全日空はそれでも風雨を突いて飛び立ったが、当初乗るはずだった正午のJALは欠航となったことを後から知った。まさに僥倖という他はない。


<次回に続く>