ひとり

いま・・・、
たしかに、ぼくは・・・、ひとりだ。
スタートラインに両手をのせた陸上選手のように。
高く張られたロープを前にした綱渡り芸人のように。

三本足に支えられた黒塗りの箱にスポットライトが当たる。
箱の蓋の裏側には、池に沈み込んだ黄金のネックレスのように、
細い鋼鉄をコイル状に巻いたワイヤーが、ゆらりっと映り込んでいる。

客席が暗がりに消える。
緞帳の袖から、背もたれのない椅子へ腰掛けたぼくのところまで、
鋭く張り詰めた光のラインがまぶしい。

いま・・・、
たしかに、ぼくは・・・、ひとりだ。
暗闇に、ふっと目覚めたときのように。
はじめて世界に生まれ出たときのように。

眼を閉じ、耳だけで世界を感じ取ろうとする。
まだ、ことばにはなっていない、深い森に響く木魂を。
まだ、意味を与えられていない、環礁に砕ける波の息づかいを。
ここには、誰もいない・・・、ぼくのほかには。

そのとき・・・、
ふいに、心臓のリズムが高鳴る。
腕から両手へと力強い信号が流れる。
指が、ひんやりとした鍵盤に触れ、弾む。

どどど、どど、どどどど、どどどっ
どどどどどどどどど、どどどっ、どどっ、どどっ


すくい上げた音に、リズムを与え、
名づけられていない未知の音をつなぎあわせ、鍵盤を叩く。
そっと叩く! 歌うように叩く! しゃべるように、たたく!

これは、いつか、誰かの唇から洩れた、声、音、ことば・・・
これは、いつか、ぼくの身体のなかに、地層のように堆積していたリズム・・・
強く叩く! 叫ぶように叩く! 笑うように、ゆっくりと、たたく!

どどど、どど、どどどど、どどどっ
どどどどどどどどど、どどどっ、どどっ、どどっ

そして・・・、
ぼくは・・・、ひとりではなくなる。
フェルトを張ったハンマーで叩かれた鋼鉄のワイヤーの響きは、
黒塗りの箱で増幅され、みんなのものとなる。

そして・・・、
ぼくは・・・、消える。
消えるのではない、はるか彼方の大気のなかへと溶けこんでゆくのだ。
終わりのないゴールをめざす、陸上選手や綱渡り芸人のように。
たったひとりで。
河内 紀